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近代から現代にかけての「普遍的な真理」の教えについてのまとめ

 

真理はひとつ、聖者はそれを様々な名前で呼ぶ

 

これは古代インドの聖典・リグヴェーダの一説です。

太古のインドの霊性の教えにおいて、様々な教えは川の支流に喩えられています。それらの支流はやがて互いに合流に、ひとつの海へと流れこむといいます。そこには、名前や言葉だけを見ると違って見えるものでも、その源はひとつであるという認識があるのではないかと思います。

古今東西、様々な宗教・宗派・ダルマ(教え)が存在しています。それらは互いに別々のものに見えますが、そこになんらかの普遍性があるとしたらどうでしょうか。それは共通の土台かもしれないし、同一の源かもしれないし、認識や理念の一致かもしれません。

この記事では、そのような霊性の普遍性についての教えを近現代の聖賢の言葉や生き方を通して考察してみたいと思います。

 

霊性とは何か

霊性はスピリチュアリティの訳語であり、物質的・肉体的な次元を超えた精神的・本質的な事象をさしている言葉です。

 

宗教とは何か

宗(真理)に関する教(教え)を意味する言葉です。

 

普遍性とは何か

普遍性とは、いつでも、どこでも、あてはまる、という意味です。

 

ラーマクリシュナ(1836 – 1886)

 

 

ラーマクリシュナの弟子が、彼の教えについて記した「ラーマクリシュナの福音」に次のような言葉があります。

 

神は一つ、名前が異なるだけだ。ある人々は彼をアラーと呼び、ある人々はゴッド、ある人々はブラフマン、他の人々はカーリ、さらに他の人々はラーマ、ハリ、イエス、ブッダなどと呼ぶのだ。

ため池に四つのガーとがあるとする。ヒンドゥたちは一つのガートで水を飲み、それをジャルと呼ぶ。回教徒たちはもう一つのガートで水を飲み、それをパーニと呼ぶ。第三のガートで飲むイギリス人はそれをウォーターと呼ぶのだ。

 

ラーマクリシュナは、これを単なる言葉としてではなく、彼自身の霊的体験にもとづく智慧によって語られています。ラーマクリシュナは、カーリー女神への熱烈な信仰を通して神を悟り、また、信者と神という二元論を超越した絶対知識の悟りをも成就し、その後に、イスラム教やキリスト教の修行も実践し、修行者はどの道を通っても絶対なるブラフマンへとたどり着くということを自らの経験を通して悟り、その真理を体現されました。

ラーマクリシュナはまた水と氷のたとえによって神の無形の面と有形の面について説かれています。

 

絶対者は、無限の水のひろがりです。ところどころにできた氷は、信者たちに現れた神の霊的人格的な姿です。

 

そして、また、次のような言葉を説かれました。

 

魚が手に入ったとする。母親は子供たち全部にピラフやカリアをやるようなことはしない。まだ消化力の弱い子供のためには軽いスープをつくってやる。だが、そうだからといってそれほど彼を愛していないと言えますか。

 

これは、様々な宗教宗派の道がある理由についてのたとえ話ではないかと思います。様々な時代背景や人々の機根に応じて、様々な宗教宗派が生まれたのではないかと思います。

 

あなたがヒンドゥであろうと、回教徒であろうと、クリスチャンであろうと、シャクティ派であろうと、ヴィシュヌ派であろうと、そてまたブラフモであろうと、どの道を進んでいようとそんなことはかまわない、大切なのは(神を求める)焦燥感だ。

神は内なる案内者だ。たとえあなたが間違った道を歩いているとしても、そんなことはかまわない。ただ、彼を慕い求めてあせらなければならないのだ。彼がご自分で、あなたを正しい道に置いてくださるだろう。

 

最後に、諸宗教の調和についてラーマクリシュナが語られた言葉を引用してみます。

 

同一のゴールに到達するために、じつにたくさんの道がある。・・・私はヒンドゥイズム、イスラム、キリスト教、そしてヒンドゥイズムのなかではまたさまざまの宗派の修行を実践した。それで私は、道こそちがえ、それらすべてがめざしているのは同一の神であるということを知ったのである。

世界の各宗教はこの階段の一つひとつのようなものである。どの階段でもよい。真剣に熱心に進んで行け。不滅の至福という水をくむことができるだろう。ただし、自分の階段は他の階段より良い、などと言ってはいけない。

陶器屋の店にはつぼだとか、瓶だとか、皿だとか茶わんだとか、いろいろの形の器が並んでいるだろう。だがそれらのすべてが一種類の土でつくられたものなのだ。そのように、唯一の神が、さまざまの時代に、さまざまの風土のなかで、異なった名と形のもとに礼拝されているのである。

 

ラーマクリシュナは、一切の個人的欲望や願望を放棄し、激しい苦行を通して普遍的な真理を悟り、人類に向けて甘露の恩寵を注ぎ続けました。その人生に思いを巡らせると、人類のために自らを捧げ尽くしたと言ってもいいのではないかと思います。

そしてその存在と福音は、次に記すヴィヴェーカーナンダを通して世界中に広がりました。

 

 

ヴィヴェーカーナンダ(1863 – 1902)

 

 

ヴィヴェーカーナンダは、ラーマクリシュナの弟子として彼の霊性のすべてを受け継ぎ、そのメッセージを世界に向けて説きました。東洋の精神性を西洋に直接的に届けた先駆者であるといえます。

それまでにも、例えば神智学協会がインド思想や仏教の教えを取り込んでいたということはありますが、東洋の教えが、まさにそれを体現した人物を通して直接的に世界に向けて発信されたのはヴィヴェーカーナンダを最初としても良いのではないかと思います。

スワミ・ヴィヴェーカーナンダは1893年9月、米国シカゴ市で開かれた世界宗教会議に現れて世界的人物となった。以後、彼はヴェーダンタの講演者として、宗教の調和の擁護者として、それにもまして一個の預言者として、人々に親しまれた。どの点から見ても、スワミジーの宗教会議への参加は、世界の宗教史上、画期的なできごとである。

 

このシカゴ会議でヴィヴェーカーナンダは宗教の普遍性について繰り返し、強い言葉で説かれています。そこからいくつかの言葉を引用したいと思います。

 

私たちは普遍的な寛容性を信じるだけではなく、すべての宗教を真理として認めるのです。

宗派主義、頑迷、およびそれの恐ろしい子孫である狂信が、この美しい地上を長い間占領してきました。それらはこの世界を暴力で満たし、幾たびも人間の血でずぶぬれにし、文明を破壊してすべての民族を絶望におとしいれました。

重力の法則はそれの発見される前から存在し、たとえ全人類がそれを忘れてしまっても存在し続けるでありましょうが、霊性の世界を支配する法則もそれと同じです。魂と魂との間の、そして個々の魂とすべての魂の父との間の道徳的、倫理的、および霊的関係は、それらが発見される前からあったのですし、たとえわれわれがそれらを忘れてしまっても存在し続けるでありましょう。

ヒンドゥ教とにとって、宗教の全世界は要するに、さまざまの男女がさまざまの条件と環境を通じて同一の目標に向かってやってきつつあるところなのです。各々の宗教は、物質的な人間から神を引き出しつつあるものにすぎず、しかも同一の神が、すべての宗教の背後で霊感を与えておられるのです。ではなぜ、そこにこれほど多くの矛盾があるのでしょうか。それらはそう見えるだけだ、とヒンドゥは言います。矛盾は、異なる性質のさまざまの環境に自らを適応させつつある、同一の真理からくるのです。

 

特に、普遍宗教について説かれているのが次の言葉です。少し長いですが引用します。

 

もしここに普遍宗教というものがあるとしたら、それは特定の時間と空間には限定されないものでなければならず、それが説く神のように無限であり、その太陽はクリシュナとキリストの信者たちの上に、聖者たちと罪びとたちの上に、同じように輝くでありましょう。

それはバラモン教的でも仏教的でも、キリスト教的でも回教的でもなく、これらすべての総計であって尚その上に発展のための無限の余地をもっているでしょう。

その普遍性のゆえに、けものと大して異ならぬ最低の野蛮人から、その頭脳とハートの徳によって人間のレベルをほとんど超越し、社会をして畏敬の念を起こさせ、人間としての性質をうたがわしめるほどの最高の人にいたるまで、その無限の腕に抱擁し、それらの各々に場所を与えるものでありましょう。

それは、その政策の中に迫害や不寛容のための余地をまったく持たず、一人ひとりの男女の内に神聖を認め、その全意図、その全力を人類が自らの神聖を自覚するのを助けることに向けている宗教でありましょう。

 

これは、私たち一人ひとりの視野を、各宗教を超えた、各宗教が生まれてきた源である普遍的な真理に向けてひらいてくれる言葉だと思います。そして、ヴィヴェーカーナンダはこの会議の最後を次の言葉たちで締めくくりました。

 

私がキリスト教徒をヒンドゥ教徒にしたいと思いますか。とんでもないことです。私がヒンドゥ教徒か仏教徒をキリスト教徒にしたいと思いますか。とんでもないことです。

キリスト教徒がヒンドゥ教徒や仏教徒になるべきではなく、ヒンドゥ教徒が仏教徒やキリスト教徒になるべきでもありません。ただ各自が他者の精神を消化吸収しつつ、しかも自己の個性を保ち、彼自らの成長の法則に従って進歩すべきであります。

会議は、聖らかさ、純粋さ、および慈悲は世界のいかなる教会の専有物でもないということ、およびあらゆる宗教体系が最も高貴な人格の男女を輩出している、ということを世界に向かって証明しました。

まもなくあらゆる宗教の旗じるしに、「助けよ、そして戦うな」、「破壊ではなく同化」、「紛争ではなく調和と平安」と書かれるであろう、と指摘いたしましょう。

 

この会議の数年後、ヴィヴェーカーナンダはインドへ凱旋帰国し、世間を退いて自らの解脱を霊性修行の中心であるという流れが主流であったヒンドゥ世界に、すべての人々を神の現れであるとみて心と体を尽くして奉仕するという偉大な教えを説き広め、霊性の開発による人格的向上と人道的活動を主な目的とするラーマクリシュナ・ミッションという組織を創立しました。

(関連する記事はこちらから)

 

 

ルドルフ・シュタイナー(1861 –  1925)

 

 

シュタイナーは20代と30代はゲーテの研究家として知られていました。

1902年(41歳)に神智学協会の会員となり、霊的な教えについて説くようになりました。1912年(51歳)には神智学協会を脱退し、人智学協会を設立します。そして、1923(62歳)年、普遍アントロポゾフィー協会(普遍人智学協会)を発足させました。

シュタイナーは、それぞれの宗教の背後にある霊的なつながりや真理について、また、古代の秘教、秘教的キリスト教の教えについても開示しました。それらの教えは、超感覚的世界への認識にもとづいて彼自身が認識した内容であり、生涯で6千回にも及ぶ講演を通して明らかにされました。

講演のテーマは、宗教の分野にとどまらず、建築、教育、経済、文化、哲学、心理学、農業、医学、芸術、音楽など多方面にわたりました。彼の仕事は、超感覚的認識にもとづく霊的な真理を、人類のさまざまな活動分野に流し込むことにあったように見えます。

そして、彼はそのような超感覚的(霊的)な認識は、誰でもが正しい修行を通して身につけることができるものであると説き、それまでは秘教として過去数千年にわたって密かに伝えられてきた修行法を現代の人類が実践できるようなかたちで開示してくれました。

 

人生は、もう一つの〔超感覚的な〕世界への洞察をとおして価値と意味を得る。そのような洞察によって、人間は現実世界に疎遠にはならない。そのような洞察をとおして初めて、人間はこの人生のなかに確実にしっかりと立つことを学ぶからである。その洞察は人生の諸要因を認識することを教える。

 

シュタイナーは、宗教の背後にある霊的な関連について、一例をあげると、ブッダとイエスの次のような関連を説いています。

ゴータマシッダールタ王子(のちのブッダ)が誕生した時、インドにアシタという賢者がいた。彼はこの赤子を見て感激して泣き始める。王様がなぜ泣くのかと聞くと、アシタは、この赤子はやがてブッダとなるが自分はその姿を見るまで生きていることができないので泣いているのだと答えました。

そして時代は下り、ナザレにイエスという子どもが生まれた。その誕生に際して、イエスのアストラル体のなかにブッダが下ったといいます。エーテル体に再び現れたブッダが、ナザレのイエスに結びついたといいます。これをルカの福音書では「イエスがベツレヘムに生まれたとき、精神界から天使の一群が下ってきて、何が起こったのか、羊飼いたちに告げた」と記しているということです。

かつてのアシタは、シメオンとして再受肉しており、シメオンはナザレのイエスのオーラのなかにブッダがいるのを見ました。そして彼は「主よ、あなたはこの下僕を平和のうちに去らせてくれます。私はわが主を見たのですから」と語ったと言います。この「わが主」とはイエスのオーラのなかのブッダのことであるということです。

 

また、7世紀、8世紀に黒海の近くにあった秘儀の中心地にブッダは霊体であらわれ弟子たちに秘儀を伝授したといいます。この当時のブッダの弟子のひとりが、数世紀後に、アッシジのフランチェスコとして再受肉したといいます。また、アッシジのフランチェスコにはイエスのアストラル体のコピーが織り込まれていたといいます。

 

シュタイナーは、このような超感覚的な認識にもとづく講演を通して、さまざまな分野に影響を与え、宗教と枠組みを超えた霊性にもとづいて人類と個々の人生のさまざまな側面を認識し成長発展させるという偉大な業績をなしました。まさに普遍人智学の名にふさわしいと思います。

 

 

ラマナ・マハルシ(1879 – 1950)

 

 

ラマナ・マハルシは「私は誰か?」と問うことで真我を探求するという道を教えた聖者です。

人間にとって「私」という想念が普遍的なものであることは異論の余地がありません。マハルシはその「私」を探求することで、真我に到達する道について説きました。

生きとし生けるものは、いつでも幸福であることを願い、不幸でないことを願っている。誰にとっても、そこには自分自身への至上の愛が見られる。そして幸福だけがその愛の源なのである。

 

そしてこの幸福こそは人間の本性であり、それを実現するために、人は自分自身(真我)を知らねばならないと説きました。

人が絶え間なく心の本性を探究しつづけるならば、心は真我をあとに残して死滅するだろう。

「私は誰か?」という想念は他のすべての想念を破壊するだろう。そして燃えている薪の山をかき混ぜる木の棒のように、ついには「私は誰か?」という想念そのものも滅ぼされてしまうだろう。そのとき真我は実現されるだろう。

 

誰しもに共通している「私」は誰かを問うという修道方法は、様々な霊的教えのなかでも特に普遍的なものではないかと思いました。

 

 

パラマハンサ・ヨガナンダ(1893 – 1952)

 

 

パラマハンサ・ヨガナンダは西洋にヨーガと瞑想を広めたヨーギです。

ヨガナンダは世界中の宗教の根源的な共通性を説き、私たちの内にある神性をあらわすための教えを説き、そのために誰もが実践できるクリヤー・ヨーガの行法を説き明かしました。

ヨガナンダは、1920年にボストンで行われた宗教指導者国際会議にインド代表として出席しました。この会議の対する書評の言葉を引用してみます。

宗教は普遍的なものであり一つである、と師(ヨガナンダ)は主張する。われわれがもっている生活上の慣習はおそらく普遍化することはできないであろうが、宗教の中に存在する共通の要素を普遍化することは可能であろうし、すべての人に対してそれに従うことを要求することはできるであろう。

そして、古代から受け継がれてきた普遍的真理についての教えを説き広めるためにセルフ・リアライゼーション・フェローシップという組織を設立しました。

 

さらに彼の業績を現代において不動のものとしたのが、霊的な自伝である「あるヨギの自叙伝」です。自らの半生を綴ったこの書籍は、彼の霊的な出自、グルとの出会いや霊性の修行、様々な霊的巨人たちとの邂逅など、まさに盛り沢山の内容になっています。

この書籍を読むと、彼が、人類を導く霊的存在たちの計画のもとで、東洋と西洋の霊的な架け橋として育てられ導かれ、西洋の人々、ひいては世界中の人々に、ヨガの教えを通して深いインスピレーションを与える霊的指導者になったプロセスが迫真をもって伝わってきます。

 

西洋におけるヨガへの関心と理解は、ヴィヴェーカーナンダによって種をまかれ、パラマハンサ・ヨガナンダによって育まれたといってもいいではないでしょうか。

「あるヨギの自叙伝」はビートルズやスティーブ・ジョブズのインスピレーションの源泉ともなり、現代、ヨガを学び実践している人たちの多くがこの書籍を読み学んでいると思います。

 

パラマハンサ・ヨガナンダが設立したセルフ・リアライゼーション・フェローシップの目的と理想についての文章からいくつか下記に引用したいと思います。

 

各人が神を直接体験するための明確な科学的技法を、世界中の人々に広める。

人生の目的は自らの努力によって、生死に束縛された有限の人間意識から神の意識に進化することであることを教え、これを広く普及させるために、瞑想の聖所を、世界の各地に、各家庭に、各人の心の中に打ち立てる。

イエス・キリスト自身が説いた教えと、バガヴァン・クリシュナが教えたヨガとの根本的な一致を明らかにし、かつ、その根本原理が、あらゆる宗教に共通する科学的真理であることを示す。

科学も宗教も、同じ原理の上に立つ一つの真理体系の中の異なる分野にすぎず、何ら矛盾するものではないことを実証する。

東洋と西洋がそれぞれ育んできた文化的および霊的知識の相互理解と交流をはかる。

人類全体を大いなる自己と観て、それに奉仕する。

 

ここにパラマハンサ・ヨガナンダの生涯の霊的仕事の目的と内容が示されていると思いました。そしてその仕事に対して彼自身は次のように述べています。

 

東洋と西洋が、永遠の霊的きずなによって互いに固く結ばれてゆくのを見るとき、私はこの仕事が、思っていたよりもはるかにやりがいのある仕事であったことを痛感します。

 

 

マザー・テレサ(1910 – 1997)

 

 

かつてイエス・キリストは「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と説きました。マザーはまさにこの言葉通りに実践し、いまもなお世界中の人々に影響を与え続けています。

ヴィヴェーカーナンダは、腐敗したキリスト教徒たちに向かって「あなた方はキリスト教徒ではありません。キリストに帰りなさい。どこにも身を横たえる場所さえなかったキリストに帰りなさい」と言い放ちました。そして、マザー・テレサは文字通りキリストに帰り、貧しい人々のなかにキリストを見て、貧しい人々に仕えることを通してキリストに仕えました。

マザーは宗教の調和や普遍性について説いたわけではありません。しかし、愛と奉仕の生涯を通して、キリスト教のなかにある理念の普遍性を証明したと言えると思います。マザーはキリスト教を広めようとしたわけではなく、ただ、キリストに倣って愛と奉仕の仕事に一生を捧げました。そしてそれが世界中の人々に認められているということ、それこそが、宗教や文化を超えたキリストの普遍性を示しているのではないかと思います。

 

聖性は、限られた人たちの特権ではありません。

とマザーは語っています。それは人種、国籍、宗教に限定されないものだということだと思います。この言葉に続いてマザーはこう語っています。

それは、あなたや、わたしにとっての単純な務めなのです。わたしは、わたしの生き方をもって、聖人にならなくてはならないし、あなたも同様です。偉大な聖性は、人を思いやることから始まります。

そして、マザーは自分が思いやりを注いだ人々のことをこう語っています。

貧しい人々の中でも最も貧しい人々は、私たちにとってキリストご自身、人間の苦しみを負ったキリストに他なりません。

 

これらは、ヴィヴェーカーナンダの「人々への奉仕をとおして神に奉仕せよ」という教えと一致していると言えると思います。また、生きと生けるものをかつて(前生において)母であったとみて慈悲の心を起こし利他行に精進する大乗仏教の教えとの共通点もあると思います。

 

マザーが彼女の活動と宗教について語った言葉をいくつか引用してみます。

カトリックであれプロテスタントであれ、仏教徒であれ、その他の信仰者であれ、彼らがよりよい人間になりさえすれば、わたしたちは満足なのです。彼らは神の愛の中で育まれ、神により近づいた存在になり、神の善の中に、神ご自身を見いだすことでしょう。

ここには、マザーがそれぞれの宗教が礼拝している神や真理のなかに普遍性を見ていたことが表現されているのではないかと感じました。

カリガートの「死を待つ人の家」では、落ち込んだり、絶望の中でだれにも必要とされず、空腹のまま、愛されずに亡くなった人は、ひとりもいません。ですから、わたしはこの家が、コルカタの宝の家だと思うのです。わたしたちは、ヒンドゥー教、イスラム教、仏教、カトリック、プロテスタント、そのほかどんな宗教でも、それぞれの書かれた聖典に従って、彼らが望むものは何でも、したり与えたりしています。

その人が、ヒンドゥー教徒であれ、イスラム教徒であれ、キリスト教徒であれ、どのように生きてきたのか、ということが、その人の人生がまったく神のものであるかどうかを、証明するのです。

 

そして、マザーは次のことを繰り返し繰り返し説かれています。

私たちはイエスにしているかのように貧しい人々に仕えてはいけません。彼らはイエスその方だから仕えるのです。

 

 

サティヤ・サイババ(1926 – 2011)

 

 

サティヤ・サイババが逝去したときにインド首相が出した声明は、サイババの人生を端的に伝えていると思います。

サティヤ・サイババは霊的指導者として、人類を、それぞれの信じる宗教を守ったまま、正しく、また意義のある生き方へと導いてきた。彼の教えは真実、正しい行い、平和、愛、非暴力という、普遍の理念にもとづくものだった。

 

サイババは、その生涯を通して「一体性」について繰り返し説かれてきました。

一つの神がいるだけです。神は遍在です。一つの宗教があるだけです。それは愛という宗教です。一つのカーストがあるだけです。それは人類というカーストです。一つの言語があるだけです。それはハートという言語です。

 

特に、すべての人々に内在する神性であるアートマ(真我)の一体性について、ことあるごとに語り続けました。

全宇宙の一体性を示しているこの神性原理を決して忘れるべきではありません。すべての人には、いや、それどころか、すべての生き物には、一なる神性原理が内在しています。実際、神性は多様性の中の一体性として理解されるべきです。

神は外にいるのではありません。神はあなたの中にいます。同一のアートマが、鳥や獣や昆虫を含め、すべての生き物に内在しています。

皆さんのあらゆる教育の目的は、どこにでもいる、すべての生き物の中にいる神を体験することです。この理想に到達することが、皆さんの人生のゴールであるべきです。

すべての人に神を見るべきです。誰を見かけても、その人を神の化身と考えて挨拶をしなさい。これが真の瞑想です。

 

そして、セヴァ(奉仕)の重要性についても説き続け、それは偉大な霊性修行であると語られています。

セヴァには根本的な特徴が2つあります。それは、相手を思いやる気持ちと、進んで犠牲を払うことです。

エゴが猛威を振るっている間は、誰も他の人に奉仕することはできません。互いに助け合おう、無私の奉仕をしようという姿勢が、人間性を発達させ、隠れていた神性を開花させます。

 

サイババはまた人間的価値についても繰り返し強調されました。それは、真理(サティヤ)・正しい行い(ダルマ)・平安(シャンティ)・愛(プレーマ)・非暴力(アヒンサー)の5つの理念です。

ただ人間の身体をもっているだけでは十分ではありません。

人間の姿に即して、人は、真理、ダルマ、平安、愛、非暴力という人間的価値も養うべきです。

どのような状況下でも、嘘をつくべきではありません。

真理を守るなら、ダルマがついてくることでしょう。

真理とダルマが共にあれば、平安が生じるでしょう。

平安があれば、愛も生じるでしょう。

愛があれば、暴力が付け入る余地はありません。

人間的価値は、真理、ダルマ、平安、愛、非暴力という神の性質を意味します。

これらは人間に真の価値を与えます。これ以外、この世のすべては実在しません。

これら人間的価値を悟るなら、あなたは神になります。これら人間的価値はすべてあなたの中から生じます。

 

そしてサイババが逝去されたとき、彼は国葬されました。インドで国葬された人物は、大統領や首相以外では、マザー・テレサとサティヤ・サイババのみだといいます。

 

 

ダライ・ラマ14世(1935 – )

 

 

1989年にノーベル平和賞を受賞され、2008年にはタイム誌の「世界で最も影響力のある指導者100人」の1位に選出され、世界中の宗教者や科学者との対話を継続的に行い、チベット仏教の導師として世界中の人々に教えを説いてまわられているダライ・ラマ法王は、まさに現代の精神的指導者であるといっていいのではないかと思います。

ダライ・ラマ法王は宗教の共存について「一輪の花は美しいけれど、花束はもっと美しいでしょう」という言葉を語っています。

 

ダライ・ラマ法王は自らの人生には3つの使命があると語られています。

ひとつは「ひとりの人間という立場からの使命であり、慈悲の心、許し、忍耐、満足を知ること、自己規制など、人間価値の促進を図ること」であり、この人間価値を法王は「世俗の倫理観」という言葉で表現されています。もうひとつは、チベット人でありダライ・ラマという名前を背負うものとして、平和と非暴力のチベット文化を保全することであるといいます。

そして、もうひとつの使命が宗教と関係するものであるといいます。次にその全文を引用します。

宗教の実践者としての使命であり、異なる宗教間の調和を図り、世界の主だった宗教間の相互理解を深めることである。

哲学的な見解の相違はさておいて、この世界に存在するすべての主だった宗教は、より良き人間性を築いていくための可能性を同じように持っている。

そこで、全ての宗教に携わる人たちがお互いを尊重し、それぞれの宗教の価値を認識することが大切である。

ひとつの宗教にはひとつの真実があり、これは一個人のレベルにおいて適切なことだが、多くの人々が存在する社会や共同体の場合には、いくつかの宗教が存在し、いくつかの真実が存在することが必要である。

そして、法王はこの通りに異なる宗教間の調和のために世界中の様々な宗教の指導者や信者との交流を深めてこられている。また、愛、許し、思いやり、奉仕などの普遍的な理念がどの宗教にも見いだせることを強調して説かれています。

「宗教を語る」という著書において、キリスト教、ユダヤ教、イスラーム、ヒンドゥー教、シク教、仏教などの共通点と相違点を中立的に分析し、宗教の相互理解と調和について説かれています。また「宗教を超えて」という著書ではさらに慈悲という理念にフォーカスして、この理念が「いつでも、どこでも、誰にでも」学び、修め、実践することが可能なものであることを説かれています。

法王は、私たち誰もが世俗的な経験から理解できるレベルでの普遍性について語られています。様々な宗教が大切にしてきた理念が宗教をこえて人類にとって大切な理念であることを説き、同時に宗教の多様性の必要についても説かれています。

すべての主要な宗教は愛と兄弟姉妹の精神をメッセージとしています。

ですから、アプローチの違いだけなのです。

アプローチは異なりますが、結果は同じです。

ですから、あなたがこういったことを理解すれば異なる伝統宗教の間に真の調和をもたらす上での障害はないことがお分かりになるでしょう。

ここで信仰と尊重の違いを明らかにするとよいかもしれません。

信仰は自分自身の宗教に向けてのもので、尊重はすべての宗教に向けたものです。

 

特に法王が説き広められた言葉に「普遍的責任(universal responsibility)」というものがあります。これは、あらゆる存在は互いに関係しあい影響を与えあって存在しているがゆえに、私たちはそれらすべてに対して現実的に責任を負っているという考えです。特に、グローバル化が進んだ現代社会においては、実感を伴ってその相互依存の関係を理解することができると思います。ほんの小さな日用品ひとつとっても海外のいくつもの国や人々の関わり抜きに成立しないということは容易にイメージできます。

仏教的な言葉で表現するならば、すべての生きものは苦しみを望まず幸せを望んでいるのだから、直接的にも間接的にも他者を傷つけたり苦しめるようなことをせず、他者の利益や幸せにつながることをするということだと思います。ここには仏教の「縁起」という考え方が反映されているのだと思います。

次に法王ご自身の言葉から引用したいと思います。

 

これは、“単に自分の家族、共同体、国家、大陸のことだけを気にかけるのではなく、人類すべてのことをいつも思い、関心を払うこと”を指しています。

これは法律によって強制的にもたらされるものではありません。いま私たちが直面しているこの現実を自覚することによって、自然と湧き上がって来る意識のことなのです。

これが「普遍的責任感」の意味です。

私たちは相互に関わり合い、依存し合っています。これが私たちが眼の前にしている現実です。

したがって、“隣人を破壊すること”それは“自分自身を破壊すること”です。こうした新時代においては、自己と他者という観念自体が時代遅れなのです。

私たちは“この世界全体が一つの家族である”と考える必要があります。

ですから“新たな現実”においては普遍的責任感こそが、極めて今日的な意味を持つものなのです。

これは決して他人に強要されるものではなく、自発的に起こる感情でなくてはなりません。

慈悲とは普遍的責任感を生み出す種子にほかなりません。

知識はこの普遍的責任感の必要性を裏付けます。

この二つが組み合わさったもの、それが本当の意味での普遍的責任感です。

 

法王がこれらの普遍性について説かれるときに土台とされているのは次のような認識です。

私たちには共通する点が一つあります。

それはすべての人が幸福な人生を求めていること、すべての人が苦しみを求めてはいない、このことです。

社会的な立場や役割や国籍や宗教は二次的なものであり、それ以前に私たちは「人間」というレベルにおいて、互いに同じひとりの人間である、ということをいつも強調して説かれています。

 

 

まとめ

 

ここまで幾人かの聖賢の生涯や教えを概観してきて、特に世界中が密接につながったこの近現代、宗教の分野においても、グローバルで普遍的な教えや動きが出てきているといえるのではないかと思いました。

上述したどの方にも共通していえることは、多様な宗教宗派を互いに認めるという前提に立って、人類への愛、放棄の精神、奉仕の実践について説き、また身をもって体現されているということではないかと思います。

 

最後に真理の教えにもとづいて国家を統一しようとした古代インドのアショーカ王の言葉を引用して終わりたいと思います。

 

ダルマ(宇宙法則)は、いっさいの被造物の幸福を目的としている。

 

アショーカ王は、ダルマが全ての宗教の教義と矛盾せず、1つの宗教の教義でもないことを勅令として表明していたということです。