仏教

【無我】についての考察 – 基礎的な概念から中観派の見解まで

この記事では、ブッダダルマの根本的概念のひとつである「無我」についてまとめてみました。もしも私の浅学による間違いがありましたら三宝の御慈悲によって正されますことを心より祈念いたします。

最初にお断りしておきますが当記事は約1万7千文字あり、仏教の基本的な用語がたくさん出てきます。文章量や仏教用語に不慣れな方にとっては読むことにかなりの労力がかかるかと思います。

その場合は少しずつじっくりと読んでいただくことをおすすめいたします。また、興味関心のある方は、是非、参考文献を直接お読みいただくことをおすすめいたします。

プロローグ

蛇と縄のお話

ここにひとつの喩え話があります。

ある闇夜、ひとりの人が道を歩いていると大きな蛇が横たわっていました。

この人は蛇に驚き、慌てて家に帰りました。

次の朝、道に出てよく見てみると蛇だと思ったものは大きな縄でした。

そして、さらにその縄をよく見てみると。。。

というお話です。

実際に道に転がっていたのは縄でしたが、この人はその事実を誤認し、蛇だと思い込んでしまいました。本当はいない蛇が実在していると思い込み、驚き、逃げ帰ってしまいました。

これは、間違った認識によって実在していない対象がいると思い込み、その妄想によって心がかき乱され、かき乱された心によって行動したということです。

このお話は「無我」を理解するための助けとなってくれると思います。

そして、この喩えには続きがあるのですが、それはこの記事の最後に記します。記事を読み通していただけたらこの喩えの意味をより深く考察していただけると思います。

無我とは何か

無我の基本的な意味

無我は、パーリ語のアナッター、サンスクリット語のアナートマンの訳です。

アナッターとは、アン(否定の接頭辞)+アッター(我)、アナートマンとは、アン(否定の接頭辞)+アートマン(我)を意味しています。

すなわち「無我」とは「我ではない」「我はない」という意味になります。

否定されている「我」とは何か

ここで否定されている「我」とは「永遠で、単一で、自在な力をもつ自我」のことです。

● 永遠 = 変化しない

● 単一 = 部分をもたない

● 自在な力をもつ= 他に依存しない

つまり、変化せず、部分をもたず、他に依存せずに存在するような自我は存在しないという真実をあきらかに示したのが「無我」です。

無我とは、私たちが「日常的に感じている私」が存在していないということではありません。

この「私」が私たちが思い込んでいるようには存在していないということ、この「私」はそれ自体で存在しているわけではないということ、そして、この「私」を何かに限定したり固定することはできないということを如実に説き示したのが「無我」という教えです。

無我を覚る目的

それでは、何故、無我が説かれたのでしょうか。

それは私たちを苦しみと無知から解放するためです。

私たちは「我がある」とか「これが我である」と事実を誤認して思い込み、その我に対して執着し(我執)、我執にもとづいてかき乱された心の働き(煩悩)が生じ、煩悩にもとづいて考え、語り、行動することによって、苦しみという結果を享受します。

苦しみの原因は煩悩であり、煩悩の源は無明です。

無明とは、事物に実体がある(それ自体で存在している)と思い込む心です。様々な対象がそれ自体で存在していると思い込み、自分自身(私)がそれ自体で存在していると思い込む間違った心の働きです。

無明とは「無我」の本質をもつものに「自我」があると思い込んでしまうことです。

因と条件から生じたものを

真実であると妄想すること

それが無明であると師(釈尊)は説かれた

龍樹『空七十論』

原因と条件から生じたものは、それ自体の力で存在しているわけではありません。不変の永遠な存在でもありません。そして、その全体には必ず部分があります。にも関わらず、私たちは、原因と条件から生じたものを、あたかもそれ自体で存在しているように認識してしまいます。

つまり、無我の本質があるものに自我があると思い込んでしまうのです。本当は実体のないものに実体があると思い込んでしまうのです。

からだにはからだの感覚器官(触覚)が行き渡っているように

無知はすべての煩悩に存在している

故に、すべての煩悩は

無知をなくせば克服できる

アーリヤデーバ『四百論』

ここで説かれている「無知」とは無明のことです。

無明をなくせば煩悩をなくすことができます。無明は一切の煩悩の源だからです。そして、煩悩を滅すれば一切の苦しみを滅することができます。

無明を滅するには、対象のありようを正しく認識し理解する心が必要です。すべての現象の究極のありようを正しく認識し理解することができたら、そこに無明は存在しません。

すべての現象の究極のありようは「無我」です。

であれば「無我」を覚ることによって無明を滅することができます。無明が滅したら煩悩が滅します。煩悩が滅したら苦しみが滅します。このように事物を正しく認識する智慧こそが、一切の苦しみから私たちを解放するための手段なのです。

これが「無我」が説かれた目的になります。

 

無我を理解するための基礎

ここでは、無我を理解することを助けてくれる概念をいくつか記しておきたいと思います。

無明

無明は煩悩の源であり、すべての煩悩に浸透するものです。さまざまなレベルのもの無明があり、私たちの心に次から次へと生じてくるといいます。

無明には次の2つに大きく分類できます。

1、単に知らないだけの無明

2、間違った見解にとらわれている無明

前者は、知識や智慧が欠けていることです。

後者は、間違った見解にとらわれることですが、間違った見解にとらわれると対象を正しく認識することができないため、間違ったものの見方にもとづいて、間違った行いをしてしまうことにつながります。

さらに「間違った見解にとらわれている無明」にも様々な段階や状態があります。例えば、四顛倒という教えがありますが、これは次の四つの誤ったものの見方のことです。

1、無常の本質をもつものを、永遠のものだととらえること

2、実際は苦しみであるものを、幸せであると取り違えること

3、無我の本質をもつものに自我があると考えて自我に執着すること

4、汚れたものを、清浄なものだと思って執着すること

このように無明によって、正しく現象を認識することができなくなります

では、どうしたらよいのか(無明を滅することができるのか)といえば、無我を理解することが、間違った見解を滅するための対策となります。ゆえに、過去現在の修行者の方々は、無我の教えを学び、考察し、瞑想し、無我を理解するための努力を積み重ねてきたのだと思います。

五蘊

五蘊とは、色・受・想・行・識という人間の心身を構成する5つの要素のことです。この5つの要素が和合して人間の心身(肉体と精神)をつくりあげています。蘊とは集まりを意味しています。

色蘊は物質的な存在、受蘊は感受作用、想蘊は識別作用(表象作用)、行蘊は意志作用と形成力、識蘊は認識作用のことです。

無常

一切の現象(つくられたもの)は生滅変化して移り変わり、常住のものは何ひとつとしてないということです。

認識対象である現象世界も無常ですし、認識主体である自分自身も無常の本質をもつものです。常に同じ状態のものはありません。

無常とは、すべてのものが変化するという本質をもっているということです。

四聖諦

四聖諦とは「四つの聖なる真理」という意味です。

これは、苦しみというに関する四つの事実についての教えであり、また、この真理が悟りの境地にいたるために不可欠な聖なる教えであると説かれています。

苦しみが存在するということは、聖なる真理である。(苦諦)

苦しみには因が存在するということは、聖なる真理である。(集諦)

苦しみの止滅が存在するということは、聖なる真理である。(滅諦)

苦しみの止滅に至る修行道が存在するということは、聖なる真理である。(道諦)

ダライ・ラマ「菩提心の解説」

ここに示されている通り、この世界には苦しみという現実が存在しています。

しかし、その苦しみには原因があります。原因があるということは、その原因を滅することができるということであり、苦しみの原因を滅することによって、苦しみを滅して幸せになることができるということです。

そのために苦しみを滅するための修行の道があり、苦しみを滅した状態というものが存在すると説かれています。

苦しみの原因は煩悩という心の汚れであり、煩悩の源が無明です。この無明を滅することができたら、一切の煩悩は断たれ、苦しみも滅します。

煩悩障と所知障

煩悩障と所知障とは、私たちが幸せになることを妨げているものです。

この2つの障害を断滅することによって、私たちは幸せを実現し、ブッダの境地、一切智の境地、不住涅槃の境地に至ることができると説かれています。

煩悩障とは煩悩という障りのことです。煩悩は様々ありますが、根本となるのは我執です。我執とは、事物に自性がある(=事物が実体をもってそれ自体で存在している)という間違った認識のことです。この我執は、人我執と法我執という2つに分類されています。

所知障とは「煩悩が残した習気(残り香・潜在力)であり、すべての知るべきものを知る障りとなるもの」と定義されています。所知障とは「ものの実体にとらわれてしまう心(煩悩障)が残した習気」であり「二元的なものの現れに惑わされてしまう心の汚れ」のことだと説かれています。

人無我と法無我

無我を2つに分類したものが人無我と法無我です。

人無我とは、「私(=自我)」が無我の本質をもったものであるということであり、「私(自我)が実体をもって存在している」という人我執(人に関する我執)を否定するものです。

法無我とは、認識対象である様々な現象や事物が無我の本質をもったものであるということであり、それらの事物が実体をもって存在しているという法我執(現象に関する我執)を否定するものです。

縁起

縁起とは「他との関係に依存して生起する」という真実についての教えです。

これは無明を滅するために必要な見解です。

間違った見解によって生じる煩悩障とその残り香(所知障)を滅する対策は何かというと、正しい見解を心に確立することです。これ以外に無明を滅する方法はありません。そして、正しい見解とは空性の理解です。

無我とは空性を理解することであると言われます。

空性とは「自性がない(欠如している)」ということです。自性とは、ものをそれ自体で実体的に存在させている性質です。しかし、あらゆる事物は他に依存して存在しており、他に依存せずに自立して存在しているものは何ひとつありません。

空性とは「あらゆる事物は自性を欠いている」ということです。そして、空性を理解するときに欠かせないのが縁起の理解です。何故なら「あらゆる事物が他に依存して存在している」という真実を明らかにするのが「縁起」の教えだからです。

苦しみの原因は「(実際には存在しない)実体をつかむ心である無明」であり、それを滅するためには、空の見解を理解しなければなりません。そして空を理解するためには縁起を理解する必要があります。

1. 無明とは事物に自性があるという間違った見解である

2. 間違った見解にもとづく煩悩によって苦しみが生じる

3. 苦しみを滅するには間違った見解を滅する必要がある

4. 間違った見解を滅するには空性(無我)の理解が必要である

5. 空性の理解には縁起の理解が必要である

まとめると上記のようになります。

そこでまずは「縁起」を理解する必要がありますが、様々な哲学学派によって縁起の理解には違いがあります。

哲学学派の違いによって縁起には3つの種類の解釈があります。何故このような違いが生じるかというと粗い理解や解釈、より微細な理解や解釈があるからです。

1. 因果の法にもとづく縁起の見解

2. 依存関係にもとづく縁起の見解

3. 名づけられただけの存在であるという縁起の見解

それでは上記の3つのそれぞれについて概観したいと思いますが、まずは縁起についての教えをいくつかご紹介しておきたいと思います。

 

縁起についての諸師の教え

他に依存して生じるという縁起を見たならば

無知が生じることはない

アーリヤデーヴァ『四百論』

条件に依存しているものはみな

その自性は空である

これよりも驚くべき善き教えが

いったいどこにあろうか

ツォンカパ大師「縁起賛」

他に依存して生じたものは

独立して存在しているのではない

すべてのものは独立した存在ではないので

自我があるわけではない

アーリヤデーヴァ「四百論」

何でも縁起しているものは、それは空であると説く

それは(他に)依存して仮設されたものなので、それは中の道である

龍樹「中論」

条件に依って生じたものは(それ自体の自性によって)生じたのではない

それには自性による生成はない

条件に依存しているものはみな、空であると言われている

空を知る者は思慮深い

「阿耨達龍王経」

 

1. 因果の法にもとづく縁起の見解

これは最も理解しやすいレベルの解釈です。

無常の本質をもつすべての事物は「原因と条件のみに依存して生じている」という意味の縁起の理解です。

花が存在するためには、種という直接的な原因があり、土・水・光などの条件が整う必要があります。これらの原因と条件によって花は成立しているのであって、それ自体の力によって存在しているわけではありません。

もし花が自性によって成立しているのだとすると、花には種・土・水・光などの因と条件が必要なくなり、種も土なども存在しなくなってしまいます。これらがなければ生成と消滅もなくなります。つまり事物は変化することができないということになりますが、これは現実的な現象に反しています。

実際には、あらゆる事物は自性によって成立しているのではなく、原因と条件に依存して成立(縁起)しています。

これは、説一切有部、経量部、唯識派、中観派という四つの哲学学派に共通する見解だと言われています。

 

2. 依存関係にもとづく縁起の見解

次の解釈は「あらゆる事物が互いに依存しあって存在している」という意味にいける縁起の見解です。

長いものは短いものがあるからこそ長いと呼ばれ、少ないものは多いものがあるからこそ多いと呼ばれます。さらに、ある関係においては長いものも、別の関係では短いかもしれません。このように、あらゆる事物は相互依存の関係にあります。

もしも、事物が自性によって存在しているとしたら、他の何かと比べずに「短い」「長い」と呼ぶことができなければなりませんが、それは現実的な現象に反しています。

どのようなものであれ互いに依存しあって存在しており、他に依存せずに存在しいているものは何ひとつ見つけられません。

これは、中観自立論証派と中観帰謬論証派という中観派における2つの哲学学派が主張する見解であるといいます。

 

3. 名づけられただけの存在であるという縁起の見解

3つ目の解釈は、最も深遠で微細なレベルの縁起の見解です。

最も粗いレベルの縁起の見解は「因果の法にもとづく縁起」ですが、「因果の法にもとづく縁起」が成立するのは、すべての存在が相互に依存しあっているという「依存関係にもとづく縁起」が成立しているからです。そして「依存関係にもとづく縁起」が成立するのは、さらに微細なレベルの「名づけられただけの存在であるという縁起」があるからです。

すべての縁起の源が「名づけられただけの存在であるという縁起」であり、これが「依存関係にもとづく縁起」の土台となり、さらにそれを土台として「因果の法にもとづく縁起」が成立しています。

「名づけられただけの存在」とは「(概念作用によって)名前を与えられたことによってのみ存在している」ということです。それは、自分自身もすべての現象も、独立自存の存在ではなく、他に依存して名前を与えられただけの存在であるということです。

どのような事物であれ、そのものの自性を探してもどこにも見出せません。ただ、その事物を認識している主体者の意識によって名づけられただけの存在としてのみ成立していると言われています。そのため、あらゆる事物は世俗的には存在しているが、その自性はなく、名前を与えられたのみの(名義上だけの)仮設された存在でしかない、と説かれています。

この縁起の見解は、中観帰謬論証派のみが主張する縁起の見解です。

 

無我についての見解

無我についての各学派の見解の概要

まずは各学派の見解の概要をまとめてみたいと思います。

無我の見解ではありませんが、無我の見解を理解するために非仏教徒の自我に関する見解も一緒にまとめました。

ブッダは教えを聞く人の機根によって様々な異なる教えを説きました。非仏教徒の見解に合わせた教え、説一切有部・経量部の見解にもとづく教え、唯識派の見解にもとづく教えなど。しかし、その究極の教えは何かといえば、それは中観派の見解であるといいます。

まずは各学派の見解がどのようなものであるのかを概観したいと思います。

● 非仏教徒

五蘊とは別個に、永遠で、単一で(=部分をもたず)、自在なる力を持つ(=他に依存しない)自我が存在する

 

● 説一切有部・経量部

自我とは、五蘊に依存して名前を与えられたものとして存在している

五蘊などをはじめとするその他の現象は実体のある真実の成立であり、部分を持たない最小の微粒子が集まって成立している

分割不可能な微粒子の集積である五蘊、十八界、十二処に依存して自我は存在している

 

● 唯識派

主体と客体は別個の実体であることに関して空である(主体と客体は同じ本質を持って成立している)

外界の対象物は真実の成立として実体を持って存在しているのではなく、内なる意識の本質として成立しているだけであるが、意識は実体のある真実の成立である

対象物を見ている主体者の意識は実体のある真実として成立している

 

● 中観派

外と内の世界に存在するすべての現象は、実体のある真実としての成立がない空の本質を持つものである

私たちの心に現れてくるすべての現象は、真実として成立しておらず、それ自体からの自性による成立がない空の本質を持つものである

引用箇所は、ダライ・ラマ「菩提心の解説」

 

無我の見解の粗いレベル〜微細なレベルの段階

先述した無我の見解は、前の見解ほど粗く透徹されていない見解であり、後にいくほどに微細で深遠な見解となっています。

前の見解はすぐ後の見解によって否定されます。

下のレベルの学派が主張する粗いレベルの空の見解をひとつずつ論破し否定していくことによって、段階的に、より深遠で高度なレベルの空を理解し、最終的には、中観派が主張する「すべての現象はその自性による成立がない空の本質を持つものである」という最も微細なレベルの空の理解へと導いていくためなのです。

ダライ・ラマ「菩提心の解説」

この点について、端的にまとめられた箇所をダライ・ラマ「菩提心の解説」より引用いたします。

1. 非仏教徒たちの見解とその否定

「五蘊とは別個に、永遠で、単一で(=部分を持たず)、自在なる力を持つ(=他に依存しない)自我が、独立自存の実体を持って存在する」という非仏教徒たちの見解を、説一切有部と経量部の見解に基づく空によって否定します。

 

2. 説一切有部と経量部の見解とその否定

「主体(対象物をとらえる意識)と客体(対象物)は部分を持たない微粒子の集まりとして成立しているのでどちらも真実成立であり、主体と客体は別個の実体を持って成立している」という説一切有部と経量部の見解を、唯識派の見解に基づく空によって否定します。

 

3. 唯識派の見解とその否定

「主体(意識)と客体(対象物)が別個の実体を持つことに関する空」(主体と客体は同じ本質であり、意識と別の本質を持つ外界の対象物は存在しないが、意識は真実成立である)を主張する唯識派の見解を、中観派の見解に基づく空によって否定します。

 

4. 中観派の見解の確立

「すべての現象はその自性による成立がないという縁起の見解に基づく空」(主体も客体も同等に真実の成立ではなく、空の本質を持つものである)を説きます。

それでは、次に、各学派の見解の詳細とそれが論破され否定され、無我の見解が深まっていく様子を概観してみたいと思います。

 

非仏教徒の見解

実体のある自我の存在を受け入れず、明確に無我の教えを説かれているのはブッダダルマだけです。仏弟子にとって自我が実体をもって存在しているという自我へのとらわれ(人我執)は否定すべきものです。

非仏教徒たちが受け入れている自我とは、五蘊に依存せずにそれ自体で存在し、永遠に不変で、一なるものとして部分をもたず、他に依存せずに存在している自我です。

このような自我の見解は、誰しもが意識的・無意識的に抱えている間違ったものの見方であるといえると思います。例えば、肉体や心に依存せずに存在する内なる自己を妄想したり、永遠に変わらない魂を妄想したり、真我を実体視し究極の実在であると結論づけたり。

ブッダダルマの無我の教えはこれらの自我に対するとらわれを否定して、究極的な見解を明らかにされています。

まずは説一切有部・経量部の見解によって、非仏教徒の見解が否定されます。

説一切有部・経量部の無我の見解

最初に注意点を記しておきたいと思います。

無我の教えは、私たちが日常に経験している「行為をなす者」であり「結果を体験する者」である世俗のレベルにおける「私」を否定しているわけではありません。世俗のレベルにおける「私」は確かに存在しています。五蘊に依存する「私」という自我は確かに存在しています。

しかし、分析し、探求してみるとそのような「私」はどこにも見出せないということがわかります。

説一切有部・経量部の人無我の見解には粗いレベルと微細なレベルがあります。それに沿って考察するために、3つの部分に分けて考察していきます。

1. 「五蘊に依存せず別個に存在する、永遠で、単一で、自在なる力を持つ自我」の否定

非仏教徒たちの見解に「自我が心身に依存せずに存在している」という考え方があります。代表的なのは、今生で死を迎えた時に、永遠なる自我が天国や地獄に行ったり、または、心身とは別個に存在している自我が来世に別の肉体を得たりするという考え方です。

しかし、五蘊と呼ばれる心身の構成要素は、常に変化する無常という本質をもっています。肉体も心も、どこかに固定することなく変化し続けています。

ですが、非仏教徒の人たちは、「私」というのは心身に依存して意識されているにも関わらず、「私」が無常の本質をもたない、永遠に変わらない存在であるというような気持ちをもっています。

しかし、無常である五蘊に依存して存在している「自我」が永遠不変の本質をもつことは矛盾しています。

自我は五蘊に依存して自覚されているのですから、五蘊に依存せず別個に存在する自我はありえません。そして、五蘊が無常であるのですから、五蘊に依存して成立している自我も無常の本質をもつものです。

これが粗いレベルの人無我の見解であり、これによって「永遠で、単一で、自在なる力を持つ自我」があるという非仏教徒たちの見解を否定しています。

2. 「五蘊に依存せず、五蘊の外に別個に存在する独立自存の実体のある自我」の否定

これは「心身とまったく別個のものとして、心身を支配する支配者のような自我があるという考え方」の否定です。

この考え方は、「私」が心身に依存して存在しているとすると、心身がなくなったときに「私」もまた消滅してしまうので、自我は心身の外に独立して存在している必要があるという見解です。

しかし、私たちの現実的な経験に照らしても、子どもの時の私と年老いた私は違いますし、健康なときの私と病気のときの私は違います。このように心身に依存して、どのような「私」かということが規定されていますので、自我は五蘊に依存しているということができます。

そのため、五蘊に依存せずに、五蘊の外に独立して存在する自我はないと言えます。これが微細なレベルの人無我による非仏教徒たちの見解の否定です。

3. 「五蘊に依存せず、五蘊の中に別個に存在する独立自存の実体のある自我」の否定

次に、同じく微細なレベルの人無我によるもう一つの間違った見解の否定を見ていきます。

これは犢子部などの仏教の一部の部派の見解の否定です。否定の対象となっている見解とは「五蘊の中に、五蘊を支配する独立した自我が存在している」という見解です。これは、自我が軍隊の隊長で、五蘊が隊長の支配下にある兵隊のようなものという考え方です。

しかし、自我が五蘊の中に、五蘊と別個に存在しているとするならば、五蘊のひとつひとつを取り除いたあとに「これが自我である」と指し示すことのできるものがなければなりません。ですが、実際にはそのような自我はどこにも見いだすことができません。

そのためこの見解も論理的に辻褄があわないおかしな見解です。

「自我」は確かに存在していますが、実際には、五蘊のどこを探しても「これが自我である」と指し示すことのできるものはありません。このようにして、五蘊を支配する独立して存在する実体をもった自我があるという「人我執」を否定しています。

説一切有部・経量部の無我の見解をまとめてみます。

● 自我は確かに存在しているが、五蘊の中にも外にも「これが自我である」というものは見出せない

● 自我は五蘊に依存して存在している

● 五蘊は無常の本質をもっている

● 自我の土台である五蘊が無常であるなら、自我も無常である

ですので、分析してもどこにも見出すことができず、また、無常の本質をもち変化し続けている自我に執着するということ(人我執)は間違っています。

執着するための対象自体(自我)が実体をもって存在していないのですから、それにとらわれる人我執は間違った見解にもとづく間違った心の働きであるといえます。

唯識派の無我の見解

説一切有部・経量部の見解の否定

説一切有部・経量部の見解によって自我を実体視する見解が否定されました。次に、この説一切有部・経量部の見解が唯識派の見解によって否定されます。

説一切有部・経量部は人無我のみを説いておりますが、この自我が成立する土台となっている五蘊については次のように考えています。

からだは物質的な存在であり、物資的な存在にはそれ以上分割することのできない最小単位の微粒子が存在している。

意識にもそれ以上分割不可能な最小単位の一刹那が存在している。

これらの最小単位のものがたくさん集まったことによって、心とからだは成立している。そ

のような心とからだに依存して、自我が存在している。

ダライ・ラマ「菩提心の解説」

つまり、自我以外の現象は、何らかの最小単位の集まりであるという主張です。

しかし、どんなに小さく分割されたものにも部分があります。ですので、これが最小単位の微粒子であるというものは存在していません。

心の働きも、肉体も、どのような感覚対象も、必ず部分にわけることができます。そして、部分にわけることができるということは、それ自体の実体をもっていないということですから、無我の本質をもっているということになります。

にも関わらず、対象物には最小単位といえる存在があるという見解をもつということは、対象物を実体視しているわけですから、それらの対象に対する執着や怒りの心は依然として生じてくることになります。

そのため、唯識派と中観派では、人無我のみならず、対象の無我である法無我が説かれています。

対象物がそれ自体で存在しているという間違った思い込みをなくすために人無我が働きかけることはできず、この思い込みをなくすためには、対象物を正しく認識する法無我の見解を理解し、心をなじませる必要があると説かれています。

唯識派の法無我の見解

ブッダは、すべての現象は実体のないものであって、泡のようなもの、蜃気楼のようなもの、幻のようなものであると説かれました。つまり、あらゆる現象は無我の本質をもったものであるということです。

五蘊をはじめとするすべての現象は、その現れのように存在しているのではなく、部分を持たない微粒子が集まった独立自存の実体を持つものとして存在しているのでもありません。

ダライ・ラマ「菩提心の解説」

唯識とは「唯、意識のみである」ということです。

唯識派は、すべての現象は外側にあるのではなく、私たちの心の本質の反映であると主張しています。ある対象が魅力的なものか、そうではないかは、私たち自身の心の反映であって、対象自体の側で成立しているものではありません。

すべての外界に存在するものは、内なる意識の本質を持つものなので、内なる意識と本質を異にするような外部対象は存在しない、と主張しているのです。

ダライ・ラマ「菩提心の解説」

どのような対象であれ、意識に依存して成立しているというのが唯識派が説くところだと思います。

● あらゆる対象物には部分があるため、どこにも実体を見出すことはできない、無我の本質をもつものである。

● あらゆる対象物は意識に依存して成立しているので、真実成立ではなく、無我の本質をもつものである。

これが唯識派の無我の見解になります。

しかし、唯識派の見解にも、未徹底な部分があります。

なぜなら唯識派は「意識は実体のある真実として成立している」と主張しているからです。唯識派は、外界の対象物は意識の生み出したものであるが、この主客(主体の意識と客体の対象物)を生み出す根本的な意識自体は実体をもって存在している、と考えているからです。

そして、この点が中観派によって否定される唯識派の見解の不十分な点にです。

中観派の無我の見解

唯識派の見解の否定

自我を実体視する見解が説一切有部・経量部の見解によって否定されました。そして、対象物の実体を主張する説一切有部・経量部の見解が唯識派の見解によって否定されました。次は、唯識派の見解が中観派の見解によって否定されます。

中観派の無我に関する見解は次のようなものです。

物質的な存在から一切智に至るまでのすべての現象は、その自性による成立がない空の本質をもつものである。

ダライ・ラマ「菩提心の解説」

唯識派が真実の成立であると主張している内なる意識も、分析し探求してみると、これこそが内なる意識であると指し示すものはどこにも見つけることはできません。それは「内なる意識」と名前をつけられただけの存在としかいうことができません。

また別の視点から分析してみても、内なる意識を内なる意識として認識をすることができるのはそもそも対象物が存在しているからであり、そうであるならば内なる意識も対象物に依存して成立しているということです。もちろん対象物が存在しているといえるのは意識に依存しています。よって、この両者、そして、認識するという行為にも実体はありません。

このようにして唯識派の見解は中観派によって克服されています。

中観派の空性の見解

「無我」とは空性を理解することであると説かれています。

そして、中観派はこの空性についての究極的な教えを明らかにされました。

私たちの心に現れてくる現象はすべて、その自性による成立として存在しているのではなく、詳しく分析して探求してみると、無自性の本質を持ったものなのです。

どんな現象を分析してみても、その自性による成立は、微塵ほども存在していません。

ダライ・ラマ「菩提心の解説」

中観派は、文字通り「すべての現象が空性という本質をもつものである」ということを説いています。

一切の現象の本質が空性であることを明らかにするための根拠は「縁起」です。縁起とは他に依存して生起し成立しているという現実的な事実についての教えです。他に依存しているものは何であれ、それ自体の自性・実体がありません。そして、自性や実体と呼ばれるものがないこと、すなわち無自性であるということ、これを空性と呼んでいます。

何でも縁起によって生じるもの

それを空であると説く

それは他に依存して仮設されたものなので

それはすなわち中道である

ナーガールジュナ「中論」

しかし、空性ということは「現象が存在していない」ということではありません。そうではなくて一切の現象が縁起しているからこそ空性なのであり、空性であるからこそ一切は縁起している、ということです。

中観派は、内なる世界における縁起を説き、外の世界における縁起を説き、世俗のレベルにおいては外と内のすべての現象が存在していることを受け入れつつ、すべての現象を幻のようにとらえている

ダライ・ラマ「菩提心の解説」

これらが中観派における無我の見解になります。

中観自立論証派と中観帰謬論証派の見解の違い

中観派のなかにも見解のレベルの違いによって2つの派があります。

究極的な見解は中観帰謬論証派の見解であり、この派はあらゆる現象の空性を説いています。

いまだ究極的な見解ではないのが中観自立論証派の見解です。この派の見解は唯識派の主張する「意識は実体のある真実の存在である」という見解は克服しており、究極的にはそれ自体によって成立する存在はないという空性を説いていますが、それでもなお世俗のレベルにおける現れは自性をもって存在していると主張しています。

そのため自立論証派の見解が心に影響を及ぼしていると世俗のあらわれに執着するという微細な心が生じてくることになります。

 

無我の見解の意義

無我の見解の意味

これについてはダライ・ラマ法王の次の言葉を引用させていただきます。

私たちはみな、苦しみを何とかして避けたいと望んでいます。

その苦しみの源は煩悩であり、煩悩の源は無明です。

そして無明とは、対象物のありようを間違ってとらえてしまう心なので、無明を滅するための対策は、対象物を正しく理解する心を育む以外にはありません。

そしてそれが、空を理解する智慧なのです。

ダライ・ラマ「菩提心の解説」

無我の本質をもつものに「自我」があると考え、その自我にとらわれてしまうのがすべての苦しみの源ということです。このとらわれには2種類あり、人を対象にとらわれを起こすことを人我執、人以外の現象を対象にとらわれを起こすことを法我執と呼びます。

この間違った認識のために、二元的なあらわれが生じ、私たちはそれらに執着したり怒ったりして苦しみの原因を紡いでいます。無我を理解する智慧が無明を滅する対策、苦しみを滅する対策になるということです。

これこそが無我の見解の意味だと思います。

人以外のすべての現象を対象とする我執(法我執)が土台となって、人を対象とする我執(人我執)が生じ、対象物を実体視する心が生じてくることから執着や怒りが起きてくるのですが、それを自分の体験に照らし合わせてよく考えてみると、自分の心に執着や怒りが起きてくる時、確かに我執がその土台となっていることを明らかに認識することができるでしょう。

ダライ・ラマ「菩提心の解説」

これらの我執の一切を断ち切り、二元的な現れを滅し、間違った認識や見解が起きてこない状態にある方をブッダと呼んでいます。

 

無我の見解に段階がある意味

これまでに見てきたように「空」や「無我」といっても、その見解には粗いレベルのものから微細なレベルのものまでいろいろあります。

なぜこのように様々な見解にもとづいた教えがあるのかというと、ひとつにはブッダには様々なタイプの弟子があり、それぞれの弟子に最も役に立ち、最も深遠に心に染みるような方法で教えを説かれたからです。弟子の心の器に応じて教えを示され、それに従って修行することによって弟子たちがそれぞれの目的を達成することができるようにされたからです。

例えば、空の見解を理解できない人たちが、中観派の空の見解を聞くことで、「この世には何もないのだ」と誤って受け取って、虚無論にとらわれ、恐怖に陥ってしまう可能性もあります。そのために「すべての現象は心を本質としており、心は真実成立として存在している」という唯識の教えを説くことで、恐れを与えずに真実の見解へを徐々に導こうとされました。また、唯識の教えを受け入れることも難しい方々へは、自我という実体はないが現象自体は真実成立として存在しているという説一切有部・経量部の無我の見解を説き、因果の法にもとづく縁起を理解させることで、悪行の過失を確信させ、粗い無明を滅する道へを導かれました。

これらはみな、弟子の気質に合わせて教えを説く必要性があったため、このような違う解釈をされたのです。

ダライ・ラマ「菩提心の解説」

そのためブッダの教えには解釈が必要な教えと解釈が不要な真実を直接語られた教えがあり、私たちはこれらの教えを論理的に分析をして自ら考えることが必要になります。

このようにして論理的に分析された結果として無我の見解が確立されてきました。

粗い見解から、説一切有部・経量部の見解、唯識派の見解、中観自立論証派の見解、中観帰謬論証派の見解という順番で、より微細なレベル、より深遠な理解へと深まり、高まっていきます。

これらの見解に裏付けられた修行によって、表立って現れた苦しみを滅し、苦しみの原因である煩悩を滅し、一切智の境地に至ることを妨げている所知障を滅することによって、ブッダの境地に達することができます。

このように多様性があるのが、それが修行の段階であると同時に、有情たちがさまざまな気質や関心を持っているためであるとも説明されています。

すべての有情が自分に適した修行の道を選ぶことができるように、さまざまな乗り物が存在しているのです。

ダライ・ラマ「菩提心の解説」

 

エピローグ

蛇と縄のお話、のつづき

冒頭で紹介したひとつの喩え話があります。

ある闇夜、ひとりの人が道を歩いていると大きな蛇が横たわっていました。

この人は蛇に驚き、慌てて家に帰りました。

次の朝、道に出てよく見てみると蛇だと思ったものは大きな縄でした。

そして、さらにその縄をよく見てみると。。。

というお話です。

蛇だと思ったけれども本当は蛇ではなく縄だった、というのは、自我が実在していると思ったけれども本当は無我であった、ということだと思います。

これは、自我が実在しているという非仏教徒の見解を、説一切有部・経量部の人無我の見解で否定した段階に相応すると思います。

そして、さらにその縄をよく見てみると。。。

縄は麻でできていました。

縄が麻でできていたというのは、縄という自性が存在しているのではなく、それは麻の上に仮設された名前だけの存在であったということであり、本当に存在しているのは麻である、ということだと思います。

これは、縄という対象の自性を認める説一切有部・経量部の見解を、唯識派の見解によって否定した段階に相応すると思います。「本当に存在しているのは麻である」というのは外部対象はすべて心の現れであり、心こそが本当に実在しているのである、という唯識派の見解の例えだと思います。

そして、さらにその麻をよく見てみると。。。

麻はさらに麻の部分から成り立っていました。

どこを探しても、どこにも麻の本体を見つけることはできませんでした。

麻は、麻という名前をつけられただけの存在でした。

これは、あらゆる現象は部分に分割することができ、他に依存して成立しているものであり、その自性を探してもどこにも見出すことはできない、それはただ名前に依存して存在しているだけのものである、ということだと思います。

これは「一切の現象には自性がない」という中観派の見解に相応する例えではないかと思います。

麻にも縄にも自性はなく、ただ名付けられただけの幻のようなものです。しかし、麻や縄が存在しないわけではなく、麻は麻として、縄は縄として存在しています。

縄や麻の本体や自性はどこにも見つけられませんでしたが、

麻は麻としての、縄は縄としての特徴や特質をもっていて、

荷物をしばったり、何かを結んだりすることができるのでした。

 

参考書籍

この記事は次の2冊の書籍を直接的な参考として執筆されました。

ダライ・ラマ「菩提心の解説」

ダライ・ラマ「ダライ・ラマの「中論」講義」

最後に

以上で、当該記事の筆をおかせていただきます。

この記事によって何らかの功徳が生じましたら、それはひとえに三宝のお導きとお働きによるものです。また、何らかの間違いや過失がありましたら、それはひとえに私の責任に帰せられるものです。その場合は、三宝の慈悲と智慧によって正されますように心より祈願いたします。